となりの吸血鬼さん第一巻について(前編)
ツイッターに投稿した表題はジョークです。
「となりの吸血鬼さん」は、1巻で完結しても評価が下がらないのでは、と思えるくらい綺麗にまとまった上質なローファンタジー4コマ作品だ。この巻では、ソフィーと灯の親睦が深まる一連の過程がストーリーの本筋である。ぼく自身は、画風がこれ以上ないレベルで好みなのと(灯のキャラデザ好きすぎる)、ソフィーがかっこかわいいところを一番評価しているが、ここではそういった感想ではなく、この作品に出てくる表現の意図を考え、作品の独自性を捉えてみようと思う。
三部構成にする予定です。
重視されない出会いの描写
さて、ひろくオタク向けフィクションでは見ず知らずのキャラ達が集合し関係を構築してゆく進展のきっかけを下記のような類型で捉えることが出来ると思う。
1 カリスマや異常性のあるキャラひとりが、他全員を引き寄せる
2 廃部の危機、もしくは一人で成立しない部活動や趣味を行うために相方を探し、見つけた相手が新たなメンバーを紹介する
3 クラスで席が近いキャラ
4 非日常的な出来事による衝撃的な出会い
林で迷った灯が偶然吸血鬼のソフィーに出会う本作品「となりの吸血鬼さん」は1と4の複合とも言えるが、第一話「闇の一般市民」では、出会いのシーンに割かれるページ数が1話中たった2ページだ。
これは近いシチュエーションと言えそうな「ハナヤマタ」での、ハナとの神秘的でドラマチックな出会いの演出とは対照的と言える。それどころか灯は、ソフィーが吸血鬼であることにもほとんど驚かず、出会った次のページでは既にソフィーに対してウザ絡みを始めている。
本作品の二人の出会いは、運命的な出会いでもなく、一方のカリスマ性による引き寄せでもない。相手が吸血鬼という非日常の存在ではあるものの、灯は特別な能力に惹かれソフィーとの関係を築いたわけではない事がわかる。
1話の中で割かれたページの分量からも、二人の出会いは表現としてさほど重視されていないと判断ができるのではないだろうか。
灯のソフィーへの視線
第一話では出会いの描写を2ページで済ませる代わり、p8から灯のソフィーに対する視線がコミカルに表現される。
動くお人形さんみたい
p8冷たい陶磁器のような肌 … 本当に生きたお人形さんみたい
p8
灯の趣味は人形集めとそれらの世話であり、非人間の設定であるソフィーに対しても人形の一種として認識している側面が強い。 この灯の傾向は物語の中盤まで続くため、少なくとも第一巻時点ではこのキャラのキャラ像の根幹を成す要素とその表現であると判断できる。また、中盤以降はこのキャラ像に変化が生じたように見えるため、後述する。 これについて少し考えてみたいと思う。このキャラ像が優勢だった範囲を以前、それ以降の変化を以後と呼ぶ。ここでは以前について注目する。
灯はソフィーのことを「動くお人形さん」と形容し、自分と違う物と認識する。だから、怪力や鏡に映らない等、彼女の存在としての異常さも括弧入れすることができ、驚かない。更に言うと、第一話から三話までで灯がソフィーに寄せる好意は「髪をとかしたい」「連れて帰りたい」のセリフで表されるように対等な親しい人間に対し抱く友愛の感情より、むしろ愛玩や所有欲を満たすための対象物としての視線が強いように見える。
かわいいドレス作って着せ替えもしたい
p18
三話で描かれたトワイライト邸での家政婦のような振る舞いも、直接的にソフィーのためというより、(連れ帰ることを拒否されたため)彼女の家に自分が住むことを認めさせることが主目的だった。以前で頻出する灯の人形好きの描写やオタク向け萌え漫画のスターシステムのような黒髪ショートの容姿をもつキャラ特有の異常性は、単なるギャグ描写用ディスコミュニケーション要素として利用されているだけでなく、このように灯のソフィーに対する視線の表明と行動の動機付けとして機能している。
以後でも、ギャグ要素として前述のような表現が完全に消えることは無いが、相対的に減少する。灯のソフィーに対する視線が変化した地点を、以降では境目と呼ぶ。
ソフィーの灯への視線
一方でソフィーは、自身が超人的な存在なことを自覚しており、第二話ではあかりのことを"人間"と呼んだ。ただし灯が名前を名乗り、ソフィーが灯を"人間"でなく本名で呼ぶようになるシーンも直後に現れる。
私は人間とは違うんだぞ。少しは怖いと思わないのか。
p13
オタク向けフィクションに限らず、相手の名前を呼ぶようになる描写は、親睦が深まる演出の王道である。
これも、前述の出会いシーンと同様に途中ストーリーが一切省かれている。読者の解釈の余地を与える曖昧な表現でお茶を濁すのでなく、経過の描写がまるで欠落しており、作品上で重視されていないと判断できるのは特筆すべきポイントだ。逆に言えば、出来る限り表現する要素を減らすことで「”人間"と呼んでいた人物を本名で呼ぶようになり、親睦が深まった」事実以外の解釈が出来ないよう意図したのではないだろうか。そう仮定すると、ソフィーは早い時期から灯のことを一人の存在として認めていると判断できる。
そもそも、超人的な存在であるソフィーは3世紀以上、人間達の営みを見てきたことになっている。成人にもなっていない灯より、ずっと人間のありさまについて理解があっても不思議でない。ただし、温厚な人柄のソフィーでも、灯の行き過ぎた行動やディスコミュネタでのウザ絡みを迷惑に感じる描写が多く存在する。
変なことされたりしないか不安になってきた
p9正直ちょっと鬱陶しい
p12
ソフィーの内面について明示的な描写は多くないため、憶測だが「多少迷惑なこともあるが賑やかになるから近くにいさせても良い」くらいの認識かもしれない。この関係が、p24でのソフィーの発言によって変化する。
灯が家に来たら楽しそうかもしれない
ここで、最低限敵意を抱いていない相手を受け入れてやる程度でなく、灯に対し一緒にいたら楽しそうと思える位には好意を抱くようになった。“灯のソフィーへの視線”で触れた、灯の視線の変化と同じように、ソフィーもまた相手への視線と認識を変化させつつあると言える。
ソフィーのキャラデザ
ソフィーは吸血鬼であるため、直射日光を浴びると灰になってしまうなど、人間にはない弱点がいくつか有る。そして、内面については、3世紀以上生きてきた経験に基づく独自の人間観のようなものを持っている。
作品は後世に残っても作者は残らないからな
p30花はすぐ枯れるから好きじゃない
p49
死ぬことは、人間である以上誰にでも100%起こる出来事だ。ソフィーは人間が死んで自分のもとから居なくなることを、人より多く経験してきたことが明らかだろう。上記のような発言は、そのような彼女の経験に基づく内面の表出であると読み取れる。
灯の友人であるひなたが花火が不毛だと難癖をつける(後述)ソフィーに対して「夢のないこと言うなよ」とにツッコミを入れるシーンがある。私たちは普段、自分や身の回りの死をどれだけ意識しているだろうか。例えば、車にぶつかったり刃物で刺せば、わりと簡単に人は死ぬにも関わらず、そのような事実を常に気にすることが耐えられない程不快だから、意図的に考えないようにしている人が多いのではないだろうか。
ひなたの言う「夢」とは、このような虚構を含んだ私たち人間の楽観的でぼんやりした気分全般であり、実際に人間が生まれ死んでいく事実を何度も経験したであろうソフィーは、そういった「夢」をもつことができない。このキャラのクールで達観した風の振る舞いは、こういった背景に基づくものであるようにも見える。
ちょっと長くなったし、今回はここまで。次回は境目がいつなのか?を中心に書いていきます。
この先もあと2倍くらい続くと思うので、前編、中編、後編の3エントリになると思います。
ゆるゆりの櫻子からみるオタク向け萌え作品の価値
ゆるゆりの大室櫻子ちゃんに狂う
2014年から放送中のアニメを観る事が少なくなってきたが、去年の冬はゆるゆりの3期を観た。
ゆるゆりは原作の形式が4コマでないこともあり、1期のBD全巻と原作大室家1,2巻しか持っていないヌルいファンだけれども、櫻子だけが異様に好きでキャラソンも集めた。3期のオンエアによってゆるゆり熱ではなく、櫻子熱が再燃してしまった。櫻子は以前からピンポイントで好きで、アニメ版で櫻子が出るシーンは何度も観返すし、大室家がスピンオフした時は涙を流し神に感謝した。
櫻子が登場するたびに映画「ジャーヘッド」で自分が捕まえたサソリを戦わせているときのキャラや、選んだ馬が先頭に出てきたときの競馬場のオッサンのようにテンションがブチ上がる。

櫻子の溢れる個性
ぼくはキャラへ感情移入したり共感することを、フィクションを楽しむ上で重要項目として捉えておらず、大半の作品とキャラに対し傍観者の立ち位置を決め込んでいる。それでも、現実の自分との関連性を読み込んで、共感したり一体化してしまうキャラがときどき登場する。完全にゆるゆりの櫻子は今回のそれだ。
粗暴
ゆるゆりのアニメ版2期は、あかりいじめが端的に挙げられるよう、一貫してキャラの性格を誇張して表現していた。櫻子の悪質さや粗暴さも例外なく際立っており、これは良くも悪くも櫻子の認知度を高めたと評価している。

例1
怒りに任せものを壊したり暴れて顔に椅子をぶつける様子、粗暴さを表すために設けたことが自明なアニメ2期3話のシーン。
なかでも、後半の泣きギレシーンはイモーティブとしか言いようが無く顔芸がすごい。魂が揺さぶられた!

例2
あかりを陥れ大笑いするアニメ2期5話。ナイーブな人が観たら一瞬で拒絶反応を示すような問題あるクズシーン。このキャラの無自覚な悪質さや気まぐれさ、享楽的な人柄が表れている。
上記の2例をはじめ、アニメ版2期では櫻子の粗暴さが繰り返し描かれる。しかも例1については、一般にキャラや作品の世界観の説明に利用される事が少なくない3話までのなかでの表現だ。原作との乖離がどの程度か考えることは今回は保留するが、少なくともアニメスタッフによる櫻子の人柄についての理解が端的に示されていると言える。
自己評価が高い
能力の低い人ほど自己評価が高いといった科学的根拠が怪しい言説をよく目にするが、櫻子は「残念」設定との連想からか、原作、アニメ版区別なく自分の行いに無根拠な自信を持っている描写が目立つ。またそのため周囲からの賞賛を露骨に求める。「櫻子様」「ドヤァ」など(たくさんありますので自明ということで)

例
妹に感謝され、それが当然だと言いたげにしたり顔になる様子
頭が悪い?
櫻子が頭の悪いキャラとして描かれているのは、誰もが否定しないはずの事実だが、本当にそれだけのネタ要員だろうか。ここではまず京子との比較を行いたい。
原作、アニメともに櫻子は先輩である京子との共通点が度々描かれてきた。基本的な要点はこうだ:
そして、櫻子は本当に頭が悪いのに対し、実は京子は要領がよく勉強が得意であるとファンからはひろく認識されている。確かに櫻子は勉強が苦手な原作の設定のため、優秀ではないことは作品内での事実でぼくも否定しない。
現実世界でも「頭が悪い」という評価は、その評価を行う人間が、対象者の他者性を十分に担保するとができないときになされるレッテル張りである場合が少なくない。例えば、短期記憶がほとんど出来ない人間は、暗算やまる覚えが必要とされる業種で働いていたら絶対に頭が悪いと認定される。
3期で櫻子が京子とゲームセンターに行くエピーソードがある。そこでは京子の助力ありつつ、クレーンゲームのコツをすぐに習得する様子が描かれた。後に京子自身が櫻子の飲み込みの速さを口にしている。また、映画なちゅやちゅみの後日譚エピソードでは、向日葵に教わりカレーを作った。大室家2巻でも風邪の妹の為に卵粥を作っている。
一般に、料理は手順や並列作業が重要な、判断力と経験がものを言う作業である。これらのエピソードは、一定の分野では、手助けがあれば要領の良さや飲み込みの速さをこのキャラも発揮できることを示したと読み取れる。これらの表現だけでも、必ずしも櫻子の知的能力が他のキャラより劣るとは断定できなくなる。
一人でも楽しそう
櫻子は自分が面白くなるために行動する個人主義的な傾向が強い。周囲の気を引いたり、雰囲気を良くする為にいわゆるピエロ的な笑いを得ようとする京子とかなり対照的だ。
例えば、前述のベンチに座ったあかりのシーンもそうだし、2期3話の冒頭で向日葵を馬鹿にする替え歌を歌ったあと「ちょっと楽しくなってきた」と言い放つ。大室家2巻では妹の友達"みさきち"を公園にいる犬だと勘違いして想像して楽しんだり、一人で見に行ったりしている。動機が他者か自分自身かの違いは、二人を比べる上で大きい。

例
みさきちを勝手に犬だと思い込んで妄想する櫻子
総評
櫻子がかなり社会的に許容されづらい人物像として描かれていることがわかる。素行が悪く、勉強が苦手で尊大にふるまうとなると、ほとんどの人の目には問題のある人物であると映るし、当然敬遠するだろう。社会的に欠点とみなされてしまう要素(以下、「欠点」と書く)が多すぎる。
個人の自由や利益をあけすけに主張したり、自分の楽しみを優先する傾向は日本では"自己中"、"空気が読めない"と排斥されることが少なくない。実際に櫻子の評価はまとめブログ文化圏で"クズ"としてよく取り上げられてきた(櫻子で"クズ"とサジェストされるし各自調べてね)。
としのーきょーこは空気を読んだうえで空気読まない行動するけど
この子そもそも空気読めてないよね
例えば上記は"櫻子 クズ"で検索してヒットした掲示板からの転載である。
このような、「空気」や「場の雰囲気」などを重視するいわゆる村社会的な規範を内面化した人間にとっては、真っ先に排除すべき部類の人物像かも知れない。また、自己評価が高い人間は、往々にして自分に自信がなかったり卑屈な人物からは疎ましい存在とされる。
オタク向けキャラ萌え作品の価値のひとつとしての自己肯定
ぼくは社会人なので、社会生活の大部分では露骨に相手を罵倒したり怒りのままに乱暴に振る舞うことはできない。仕事の出来に自信があっても威張ったりしないように当然している。
しかし、それらは全て社会適応のために学習した振る舞いだ。そう振舞わざるを得ないから振舞っているだけで、内心とは一致させたくないし、していない。人間の本質的な部分をあるがままの自分などと呼ぶが、これまでにふれた櫻子の悪い部分の特徴をぼくはすべて持ち合わせている。
ふだん社会から抑圧された自分の直らない部分や、欠点とされるような性格の傾向をこのキャラに重ねているから、櫻子の一挙一動が心に響くし目につくのだと思っている。
オタク向け萌え漫画やそのアニメ化された作品を消費するオタクであるぼくにとって、それらの作品のキャラはかわいいと感じる造形や動きやCVであり、読んだり観ていてとても良い気分になれる娯楽コンテンツだ。かわいいと感じるキャラが、自分の欠点や抑えつけた性格をかわいく書き換えて表現し、彼らがその世界で許容され肯定さている状態は、ぼくを強く勇気づける。
自分のこの部分は社会的に認められないから控えているだけで、本来それ自体が他人に否定される筋合いなど無いんだ、と自分自身に思わせることができる。
例えば、周囲より相対的に精神が未熟で内向的なキャラは根強い人気がある。
これには単なる弱者萌え(オタク独自仕様のパターナリズム)や共感による仲間意識だけではないように見える。単なる仲間意識だけではなく、自分と共通の欠点があるように感じられるキャラが、作品世界内でかわいく魅力的に振る舞い、周りが彼を受け入れる様子を見ることで、自己の内面を肯定したいのではないだろうか。
ひとの劣る部分や失敗を面白おかしく表現することは、大半のお笑い要素における源泉である(お笑い芸人のみなさんがポリティカリーインコレクトと差別のエンタメを提供している事実を想像してほしい)ことは当然とし、オタク向け萌え漫画のなかには、そのような人の不幸を笑う以上に意味のある表現が時々出てくる。
オタクカルチャーは構造から表現内容まで問題を感じる部分が目に余る現状で、全てを肯定したり擁護することはぼくにはとても出来ないが、この機能一点だけでもキャラ萌え作品の価値があると思うし、この価値から効用を得るために今後も消費し続ける予定だ。
ツイッター控えます
2014年ごろからツイッター離れが目立つようになってきた。自分の周辺では下の2パターンが多かったように見ている。
・ネガティブなニュースに対して怒ったり精神をすり減らすことに耐え切れなくなった(メンがヘラるタイプ)
・311以降の一連の社会問題に対する関心から吹き上がっていたが、議題の高度化について行けなくなった(TDC界隈を忌み嫌っていそうなナイーブな心情左翼タイプ)
僕がツイッターを凍結した理由は上記にあてはまらず、単純にツイッターがプライベートの時間をほぼすべて奪って何もできなくなってきたからだ(!!何かのオタクである前にツイッターのオタクになってしまった!!)
去年くらいから、人種や性差別に関する問題を露骨に取り上げるようになって「変わってしまった」「おかしくなった」「オタクのくせにフェミに媚びて何がしたいんだ」みたいな陰口を叩かれ続けているが、そういうシリアスな話題に疲れたとか自己嫌悪に陥って塞ぎこんでしまったわけでは決してない。むしろ今までは書かないようにしてただけ。残念でした。
ぼくも心配されてみたいしアカウント消してみるか
— ロールケーキ (@dokidokivisuals) January 1, 2016
↑これは冗談です。多少なりとも心配してくれた方、ありがとう&ご迷惑をお掛けしました。
ブログを書こうと思ったのは去年の春だが、結局1度しか更新していない。 怠惰な僕にとって、行動を新たな習慣にすることはハードルが高く、これといって現実生活が忙しい訳でもなくオタクコンテンツも今までと同じペースで消費し続けているのに、全然アウトプットできない。ツイッターの画面を眺める時間を減らしたからって毎日ブログを書けるとも思えないが、まずはベッドで横になる代わりに机に向かう時間を増やそうと思う。
以上です。ブログの更新通知はツイッターへ自動ポストします。
きららMAX 2015 9月号

ご注文はうさぎですか?
率直に言って、今回も話がスッと入ってこなかった。 ごちうさの画風はとてもかわいらしく好みだが、読了後に「結局どういう話だっけ」とモヤモヤすることが多い。
現状、自分なりに考える原因の一つとして、一コマごとの情報量が過多、もしくは整理不足に見える部分がある。 例えばp9の右側4コマ目では、背景でキャラ3人が団結(ボケ)している前面で別の二人が暑苦しいとツッコミを入れるが、後ろのキャラもさほどデフォルメされておらず、前面のキャラはそれよりデフォルメされている。これは、どちらがメインの情報でどちらが補助なのか不明瞭になっているように感じられる。 要素を前後に配置した時点で、絵を見た人間は順番を意識することが自然なはずであり、もしどちらも同じ価値の情報ならなぜ横並びやコマでわける等ほかの配置にしなかったのかとモヤモヤする。
ごちうさのスッと入ってこない原因の考察は継続していきます。 感想としてはシャロちゃんのコーデがかわいかったです。あと先月号のほうがストーリーは明確で面白かった。
きんいろモザイク
先月に続いて、シノの内面のうかがい知れない不気味さを感じた回だった。 姉の役割を演じることになり、陽子が引くほど振る舞いを豹変させるシノ。 p19は勇姉の行動を彼女なりにリプレイしているようにも見えるが、p21ではエスカレートして男性口調にも感じられる出所不明の人格を演じる。
シノの人柄や思考の異常さは、きんいろモザイクのメインテーマのひとつかもしれない。同時にアリス不在の禁断症状をはじめ本作品で描かれる「成長」に対する障害としての描写も多々あり、生活環境が変わってしまう卒業後や進学時にどんなかたちで決着がつくのか未だに見当がつかず不安にさせられる。
今エピソードでは綾ちゃんの「恋に恋する乙女」をかなり明確に描いてました。 一部ファンが指摘するアニメ版きんいろモザイク二期での彼女に関する違和感について、原作からの回答として活用できる回だと思うので誰かその辺書いて下さい。
つぼみアレンジメント
今月号から追い始めます。 やけに淡々とした印象を受けたが、余白が多すぎるわけでも文字が少ないわけでもない。何がそう感じさせるのか気になる作品。 現時点では、4コマで起承転結が完結しているセットが11/15(主観)なことが原因で4コマのセット各々が独立して感じられるのではないかと想定している。この方針をコンパクトで読みやすいと感じるか、話の連続性が掴みづらいと感じるか人によって別れると思う。
フタバとカリンのやりとりについて時々現れるp194の左4コマをはじめとした所謂百合妄想がこの作品の趣旨なのか、それとも花言葉のピックアップにみられるような趣味の世界を展開していくのか、まだ本エピソードしか読めていないので全く判断がつかない。
後のほうなら箱庭ひなたぼっこやDear My Sweet Flowersともぜひ比較していきたいと思う。
アリノス☆ワンダーランド
つい最近2巻をもっての完結が公表された本作品。最後のページもナカちゃんによる物語の根幹についての問題提起で終わる。
もしかして もっと私達ならではの
ステキな答えが あるのかな…?
今までもナカちゃんとルリを対応させて描くコマは見られたが、p208で再びルリに「似てるな…」と言わせているのも、終盤のセリフを際立たせているように感じられた。大雑把にくくろうと思えば似ていると言えなくもないが、ルリが相手の期待する自分を演じるタイプなのに対し、ナカちゃんは率直でドライな面もある(1巻で"諜報活動"中に時々嫉妬してるけどね)
お互いに執着しあい関係の持続を必要とするみかルリは、アイデンティティの維持に相手を必要とすることが1章で描かれた。 一方、ナカちゃんはp213のように一人でいるからといって必ずしも不幸ではないし、本人とたかみん間で役割が完全に分かれている。このあたりが最終的な物語の結末に差異をもたらすのではないかと見る。
また、きらら読者のあいだで言われる「2巻の壁」について、この作品にその通説を無条件に適用することにかなり疑問を感じているので、今後ふれたい。
初めだから書きますが、ぼくはナカちゃんのキャラデザが死ぬほど好きです。 黒髪ショート最高。めちゃめちゃかわいい。
ブログ始めました
YO